「クリスチャンになる」とは
Y・Oさん 2020年11月8日
私が救いの確信をいただき、洗礼を受けたのは約14年前のことです。経緯をキャンプの中で、奉仕する立場になってからお証しさせていただいたことがありますが、簡潔な内容だったので、今回改めて自分の原点を思い起こす時となりました。
まだ、この会堂が建つ前でしたが、初めて服部喜望教会に来たのは、小学1年生のクリスマスでした。当時のことをご存じの方は、今でも時々「あのクリスマスのことはよく覚えている。雨が降って肌寒い日だった。3姉妹だったからとても印象に残っているよ。」と話してくださいます。私も断片的にですが覚えています。
クリスチャンでしたが、結婚や出産などを機に教会を離れていた母と私たち3姉妹の教会生活がそこから始まりました。父はノンクリスチャンですが、教会に行くことに対して、止めたり、否定されることはありませんでした。時々、家族で団らんしている時に妹と口喧嘩になったりすると「教会では何を習ってんねんや?」と少しドキッとするようなセリフを言われたことはあります。それでも、静かに毎週教会に行くことを見守り、時には送迎もしてくれたことを思うと、とても恵まれた環境だったのだと今になって感じます。
毎週喜んで教会学校に通い、聖書のお話を聴くことは習慣になっていきました。小学校高学年になると、分級の時間に信仰の話を先生と1対1ですることもありました。洗礼についても何度か聞かれました。イエスさまのことは信じているけど今すぐ受けたいという気持ちは持てませんでした。中学生になり、部活は2つ掛け持ちしていましたが、土日は休みの部活だったので私は変わらず教会学校に通っていました。
その年の夏、初めて大阪教区の中高生バイブルキャンプに参加しました。3泊4日という長期間でしたが、私は教会関係以外のキャンプは結構参加したことがあったのと、長谷川先生ご一家が一緒だったので何の不安もなく参加することができました。キャンプでは日常を離れた自然の中で、たくさんのみことばに触れ、まさに恵みのシャワーに満たされているような感覚でした。
自分の中で衝撃的だったことは、歳の近い青年バンドの演奏、リードで讃美することでした。ワーシップソングも初めてで、とても新鮮でした。ワーシップソングはなじみのある言葉でつづられ、心にダイレクトに響くものや、今の自分を代弁していると感じる曲もたくさんありました。
そして、初めてのキャンプでもう1つ大きかったことは、信仰の友が与えられたことでした。キャンプが終わってからは、文通をしていました。何か不安なことなどあると、お互いに祈りの課題として挙げ、祈りでつながることのできる喜び、心強さを感じました。
翌年、中学2年生の夏、再びキャンプに参加する恵みが与えられました。その時の講師であった篠原利治先生を通して神さまは強く働きかけてくださいました。篠原先生は自分と同じぐらいの中高生とのかかわり、またそのかかわりの中で神さまがどのように現れてくださったのかという経験をいくつも、熱く語られました。
話に登場する若者の多くは、様々な環境の中でもがき、苦しみ、生きることに希望を持てなかったり、自分をないがしろにするような道を選ぼうとしていました。愛を知らない、愛された経験のない中高生たちが、篠原先生を通して神さまの愛に触れた時、それぞれが変えられていきました。闇の中から新しい人生へと導かれていきました。
篠原先生は、全て自分がしたことではなく、神さまによるものだと話されました。私はその話を聴いた時、本当に神さまはいるのだと初めて強く感じました。聖書のお話はたくさん聴いてきました。イエスさまのなさった数々の奇跡も、十字架のできごとも、復活も何の疑いも持たず受け止めていました。しかし、それは知っているつもりだったのかもしれないと思いました。昔から本が大好きで、物語をたくさん読んでいたので物語の1つのように捉えていたのかもしれません。キャンプの中で、何度も神さまは私に語り掛けられました。
神さまはこんな小さな私の名前を呼び、愛してくださって、他の誰でもない私のためにイエスさまは十字架にかかってくださったのだということを信じる心が与えられました。頭で理解していたつもりだったものがすとんと腑に落ちたような感覚でした。その時にワーシップソング「あなたのために」を歌いました。こみ上げてくるものがあり、途中から歌えなくなりました。
『あなたのために死んだ人がいる』『キリストが十字架で死んだのはあなたを愛してるから、救うため、あなたが生きるため』という歌詞から、イエスさまの十字架を自分のこととして受け止めました。キャンプファイヤーの時には、マタイの「人間をとる漁師にしてあげよう。」の箇所からメッセージがありました。何事にも最初はできるかなと考えたり、消極的になりがちな私ですが、このイエスさまの招きに素直についていきたいと思わされました。
キャンプ最終日、救いの確信を持ったか、また受洗の招きにあずかるかという問いかけに対して迷いなく手を挙げていました。グループの先生と罪について、救いについて、聖書に約束されている箇所を読み、祈りました。
「罪の支払う報酬は死である。しかし神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスにおける永遠の命である。」ローマ6章23節
「もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しい方であるから、その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめてくださる。」Ⅰヨハネ1章9節
「すなわち、自分の口でイエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる。」ローマ10章9節
この時初めて、見て見ぬふりをしていた自分の罪と向き合いました。その年の12月、妹、妹の同級生と5人で受洗しました。バイブルキャンプへの参加は自分の選択と思っていたけど、それも神さまの招き、導きによるものでした。私がまだ教会も神さまの存在も知らない時から私を捉え、呼びかけてくださっていたイエスさまの救いの道は本当に大きな恵みであり、かけがえのないものです。
洗礼を受け、新しい歩みを始めてからも何度もつまづきがありました。世間の誘惑にもなびいてしまうし、周りの人を愛せない、許せないこともあります。人とすぐ比べてしまって自分はダメだなという思いに駆られることもあります。でもその度にイエス様は「あなたは高価で尊い」「ありのままで大丈夫」「いつも側にいるよ、決して見放すことはない」と励まし、支え、導いてくださいます。
「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのである。」ヨハネ15章12節
私を選んでくださった主により頼みつつ共に歩む者とさせていただきたいです。